腹立たしいとき、うれしてくて仕方がないとき、落ち込んでいるとき、からだがどんな状態になっているか観察してみたことはありますか?
ハラが立っているのとアタマにきているのとでは、からだの状態がどう違うか感じられますか?
さらに細かく言えば、その2つで筋肉の緊張状態や姿勢やしぐさがどう違うか、なんて感じようとしてみたことがありますか?
俳優さんならそのあたりは演技として使い分けていますし、見る側もその使い分けが理解できるからストーリーに入っていけるわけです。でも、自分の今の感情に対してからだがどうなっているか、には案外目を向けることはありません。
もちろん「怒っていないフリをしている」「元気なフリをしている」などの日常的なちょっとした”演技”には、それ相応の意識的な使い分けをしています。
だけどそれが”無意識に”怒りを押さえ込んでいたり、”無意識に”明るさをつくっていたりする場合、感覚的にはちょっとしたひっかかりに気づいていたとしても、身体的にどんな矛盾や緊張が起こっているのか気づくことは難しくなります。
逆に、コントロールできないくらい感情的な時は、からだはどうだなんて目を向ける余裕もありません。
使い分けをしようが無意識でいようが、それぞれが生きてきた過程の中で身につけてきたやりかたで、感情とからだは<一致>して機能しています。
それは悪いことではないはずです。そうやって今(今までは)、現に生きていられている、という結果に結びついているから。
ほんとうは自分の中で何も矛盾を起こさずに<一致>しているなら、それが一番健康的です。
たまに、”気づいていて”ちょっとした「フリ」ができるなら、それもスパイスとして豊かになれます。でも、そんなのびやかな人は現代社会の中では稀にしか見つかりません(よね?)たぶん。
重ねて書きますが、ほんとうは自分の中で何も矛盾を起こさずに<(真の)一致>しているなら、それが一番健康的です。
さらに、今(まで)現に生きていられている、という結果に結びついている<(今現在の)一致>も悪くはない。
ではなんでこのタイトル、”感情とからだの状態は一致しなくてもいい”なのか、というと、、、
<今現在の一致>から出て<真の一致>に向けて冒険をしてみようとするなら、一致しない状態を”気づいて”体験していることはよいプロセスになり得るから。
わたくしごとですが、このごろ背中の緊張を”意識して”楽にする方法をみつけました。
以前は緊張していることはわかっていてもどうすることもできませんでした。
それが、「あ、いま楽だ。気持ちいい」という状態を知り、さらに何で楽なのか?を観察する過程を経て、姿勢や動作の中でからだの違うところを使うことでテクニックとして背中を楽にしてあげられる。
いつも無意識に楽でいられるようにはまだできないけれど。というか、意識的にしかできない今だからこそ、<今現在の一致>から出て少し冒険すること、に使えます。
例えば、むちゃくちゃ腹立つわー、という時、ふと気づけば例のごとく背中がガチガチになっています。むしょうに不安な時、やっぱりそうなっています。
そいういう時、感情はそのままに、背中だけテクニックで楽にしてあげる。そうするとからだのいろんなところが連動して楽になる。
ミソは、これで気分(感情)のほうも良くなるわけではない、というところ。突然ポジティブになったりはしない。そんなうまい具合にはいきません。
でも、ここでできるギャップが面白いのです。腹は立ったまま、不安なまま、そして吐きそうにせつなくても、からだの感覚は楽で気持ちいい、体感としては機嫌がいい。
感情とからだの状態、が、いままでの無意識な<一致>からいったんバラバラに分けられたら選択肢が一つから二つに増える、というメリットがあります。
でも私が何より嬉しかったのは、安心して今の感情を味わうことができること。全面的にこの感情に巻き込まれてしまったり、すべてがこれとひとかたまりになってしまう怖さが減らせれば、ちゃんと感情を観ることもできるし拒否しなくてもいい。それだけでもとても豊かです。
<今現在の一致>から出て少し冒険すること、には準備が必要だと私は思います。
準備なしに他者(環境)からの強い力でバラバラにされたり、無意識に無防備に<今現在の一致>を破棄してしまうことは避けたい。
冒険は素敵だと思います。なので、ぜひ以下のものを用意してお出かけください。
冒険の持ち物:
①”いいかんじ”の体験。できるだけ質の良いもの。そしてある程度の量。
②”観る”ための感覚。その冒険は「あれ?なんか変やわ」とか「これもなんかいいねー」とか、ちゃんと新鮮さ(たまには懐かしさ)を感じることが道しるべや灯火になる。
そしてこの①と②を手に入れるために、フェルデンのレッスン使えます。
え?なんか気になるなあ、と思ったら、おいでくださいね。